■ワープロの利用だけでも元がとれるパソコン
パソコンのよさを理解ができたところで、パソコンを購入したとしよう。
パソコンを購入すると、大きな箱が家に届く。なんでこんな大きなものを買ってしまったんだろうと、はじめて箱を見たときには思ってしまうものだ。とくに一体型のパソコンではなく、分離型のパソコンを購入すると、よけいにダンボールの箱の数に圧倒されるものである。
ダンボールを開けると、わけの分からないコードやマニュアルなど、付属品が次からつぎにと出てくる。
「あーあ、よけいなものを買ったな」
なんて思わないでほしい。あなたの生徒は、連休や夏休み冬休みに入るたびに、
「あーあ、なんでこうもよけいな宿題ばっかり渡してくれるんだろう」
と思うものだ。パソコンは宿題ではないから、その分気軽に接触できるだろう。子どもたちにつらい思いさせている分、先生も頑張るしかないだろう。宿題は子どもたちのため、パソコンは先生のためになり、ひいては子どもたちのためになるものだ。ここはダンボールの大きさにめげずに、先生の威厳を持って頑張るしかないのである。
ダンボールからパソコンを取り出し組み立ててからが、またたいへんな作業が待っている。
パソコンに購入したあなたの個人データなどを入力する作業が待っているものだ。これは、それほど難しくないのだが、はじめてパソコンに触る人にとっては、たいへんな作業となる。
一番は、文字の入力だろう。
まだ、ワープロを使ったことがないのに、キーボードから自分の名前などを入力しなくてはいけないわけだ。ここの作業は、無理して漢字ですべて入力するとこはない。ローマ字で入力しても受け付けしてくれる。また、名前でなくイニシャルなどを入力してもOKだ。
自分で買ったパソコンを、どう扱おうが、ユーザーしだいなのだ。なにも気にすることなく、入力していくといいだろう。
さて、パソコンが利用できる状態になったら、まずチャレンジしてほしいのが、ワープロソフトの習得だ。
ワープロソフトは、パソコンのソフトの入り口にあるものだ。これを使えるようになることは、パソコンに対する学習の8割が済んだといっていいほど、パソコンの学習の中心に位置するものなのだ。これさえ利用できれば、高額なパソコンを購入した元をとれるほど、重要なソフトである。だいたいが、パソコンというものはデータの入力に反応するように作られているものである。その入力の根本的な源に、文字データの入力があるわけだ。だから、ワープロとしての文字入力ができれば、パソコン操作の8割は、手中に収めたといえるほど重要な位置を持っているわけだ。
パソコンを買って利用していても、
「ワープロ以外は使えない」
と、なげいている人をみかけるが、ワープロだけでも利用できれば、十分パソコンを購入した元は取れると思う。
わたしは仕事とがら、ワープロとしての使用度が80%ほどになっている。だから、ワープロとしてだけ利用していて十分、パソコンを購入した価値を甘受していると思っている。
先生も同じではないだろうか。ワープロソフトだけを利用できるだけで、80%はパソコンを購入した価値を受けることができるはずだ。
ビデオを購入しても、そこに組み込まれている機能の半分も利用してないかたは多いだろう。パソコンだって、当然すべての機能を利用しなくても、いいのである。
■自分で学習するか、生徒に教わるか
パソコンを勉強する場合、なかなか同僚の先生に聞くことは、はばかれるものだろう。
「気軽に聞いてよ」
といわれても、気軽になれないのが先生というものだ。
そんな場合、気になる先生に頭を下げて聞くより、自分の教室の生徒にきくのが一番だ。
「おーい、だれかパソコンを使える人はいないか?」
これだけいえば、たぶん2、3人の生徒が手をあげてくれるはずだ。だれも手を挙げなければ、しょうがない。自分ひとりでヤルしかない。
でも、誰かが手を上げてくれれば、しめたもの。
「こんどの日曜日に、先生に教えてくれないか」
とやれば、新たな生徒とのコミュニケーションが取れるのではないだろうか。
人間、質問されそれを教えるほど気持ちがいいものはない。そんなこと先生が一番知っていることだろう。その快感を子どもたちに、教えてあげるのもひとつの先生の仕事だろう。
こんなことで、パソコンを使える子が、クラスの人気者になったり、その子に教わった子が、先生よりはやく覚えることができたりすると、また注目をあびたりと、いい刺激になっていくのでがないだろうか。
ただ気をつけてほしいのが、前述したようにパソコンはすべての人にとって利用価値があるものではないということだ。車の運転ができない先生がいると同じように、そして歌が下手な先生がいるように、パソコンが苦手な子はいるもの。そんな子に無理して、パソコンを使わせようとするなんてことは、やめてほしい。パソコンができない先生が、いままで生徒に教鞭を取ってこれたように、こんごパソコンが使えなくたって、いくらでも社会で生活はできるのだ。
なんでもかでも、みんなと同じようにしたい気は分かるが、それは子どもたちの個性をつぶすものだ。
みんなと同じことをしたい子もいれば、個性を追求していきたい子もいるものだ。それを同じレベルでどうこうしようとするのは、先生の傲慢としかいいようがないのではなかろうか。
とはいっても、パソコンはやはりすばらしい道具である。
この良さを子どもたちに伝えることができないということは、先生として疑問が残る。すべての先生がパソコンが使えないということは分かるが、使えなかったからといって、担任となっている自分の生徒まで、先生と運命を共にさせるなんていうことは子どもたちがかわいそうすぎる。自分の無知は、自分でなんとか解決して、子どもたちに明るい未来を提供して欲しいものだ。
それができなければ、辞表をだすべきだろう。